神父さまのお話

百瀬 文晃 神父

 

聖体拝領のこと(細江カトリック教会だより 2015年2月号)

 先日、「キリスト教一致祈祷週間」(1月18日~25日)の集会が長府教会で行われたとき、茶話会で一人のプロテスタントの方が次のように発言されました。「カトリック教会のミサで、カトリックでない人に聖体拝領が許されないのは納得できない」と。

 現代では、プロテスタントの諸教会でも、カトリックのミサにあたる「聖餐式」をひんぱんに祝うところが増えてきました。それは、主キリストが最後の晩餐で「わたしを記念するためにこれを行いなさい」とおっしゃったことであり、使徒たちから受け継がれてきたキリスト教の信仰の核心をなすことだからです。けれども、その正確な理解は諸教派の間に違いがあります。プロテスタントの教会では、「共同陪餐」(きょうどうばいさん)と呼んで、主の食卓を囲むものにはだれにでもパンを分かちあうところが少なくありません。教派の違う人だけでなく、洗礼を受けていない人にさえ、それを許すところもあります。

 しかし、カトリックの信仰では、ミサは「キリストの体」への参与です。私たちは「キリストの体」をいただくことによって、一つのキリストの体の一部となります。「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(1コリント 10・16)と言われているように。ただありがたい恵みをいただくだけではありません。そこで私たちはキリストの体に組み入れられ、キリストに結ばれると同時に、互いに結ばれます。それは、教会の本質の目に見える現実です。だから、そこで前提になるのは、洗礼を受けていることだけでなく、カトリック教会の交わりの中にあることです。

 また、もう一つ大切なことがあります。カトリックの信仰では、ミサはただ一緒に食卓を囲むだけではありません。主キリストが「これはわたしの体である」とおっしゃったときから、そのパンはただのパンではなく、パンの形色のもとにあるキリストのおん体です。しかも主は、ご自分のなきあとは使徒たちがこれを続けるようにお命じになりました。使徒たちは按手をもって自分の後継者(のちに「司教」と呼ばれる)を立て、その役目が今日まで受け継がれてきました。司教の協力者として司祭の叙階を受けた者は、ミサを司式して主キリストの言葉を語ります。そのとき、この司式者をご自分の手足として、復活の主キリストご自身がそこにおられ、ご自分の体を捧げてくださいます。これが「聖変化」と呼ばれる瞬間で、そのときからパンはもはやただのパンではなく、キリストのおん体です。

 そのように理解していなければ、一つのパンを分かちあうことはただの交わりのシンボルとされ、式が終われば残ったパンは捨てられてもよいことになります。そうではなく、聖体には主キリストが現存しておられ、病人やお年寄りなど、ミサに参加できなかった人のために大切に保存されなければなりません。聖体拝領がこれを信じている者にのみゆるされるのは当然のことでしょう。このカトリックの信仰をよく理解して、これを他の人にも説明することができるようになりましょう。