神父さまのお話

百瀬 文晃 神父

 

聖徒の交わり(教会だより 2017年11月号)

 枯れ葉の散る道を歩いていると、亡くなった友人のことを思いだしてしまいます。葉っぱが散るように、だれしもいつかは人生の終末を迎えるのですが、葉っぱのように消えていくのではなく、神さまは私たち一人ひとりに新しいいのちを与えてくださるでしょう。これがキリスト者の信仰です。けれども私の友人は病床で、それは本当なのだろうかと、内心の不安を打ち明けました。
 パウロがコリントの信徒への手紙で書いているように、コリントの教会には「死者の復活などない」と言う人がいたようです(1コリント15・12以下)。これに対して、パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言います。もし死者の復活がなければ、自分は復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言っているのだから、偽証人となってしまう。そして、その証しのために生涯を捧げているのだから、すべての人の中でもっとも惨めな者となってしまう、と述べています。
 パウロの論理がどこまで現代人に説得力をもつか、わかりません。しかし、たとえばカルメル会のシスターたちが一生のあいだ狭い囲いの中で真剣に修道生活を送っておられるのを見ると、パウロと同じ思いに駆られます。もしシスタ-たちの信仰が妄想にすぎないとしたら、とてもあのような生活を生涯にわたってまっとうすることはできないでしょう。
 今年は、下関で長く教会のために尽くされたリントホルスト神父さまや、小さい姉妹モニカ郁子シスターをはじめ、なつかしい恩師たち、友人たちが世を去られました。この方々も、その生涯を通して、信仰を証してくださいました。その証しは、私たちが混迷した世界の中で決して迷うことなく、純粋に復活の信仰に生きるよう励ましてくれます。
 ところで、毎日曜日のミサの中で唱える「使徒信経」で、私たちは「聖徒の交わり」を信じると宣言します。「聖徒」とは、公に列聖された聖人たちのことではなくて、「召されて聖なる者とされた人々」(1コリント1・2、ローマ1・7など参照)、つまり洗礼を受けて神の民となった信徒のことです。そして「聖徒の交わり」とは、信徒たちが神の恵みを互いに分かちあっているということです。
だから、ある人に与えられた恵みはすべての信徒たちにとっての恵みであり、一人の人に欠けるところがあれば、その人は他の兄弟姉妹のいただく恵みを分かち与えられます。この恵みの共有は、時間と場所の違いを超えていて、人生の途上にある人々と、すでに神のもとに召された人々とのすべてに及んでいます。
 死者の月には、天国にある私たちの家族、親族、友人たち、恩人たちのことを思い起こしましょう。地上にあってさまざまな試練に遭遇している私たちに、彼らが神さまのもとで取りなし、必要な力と希望を分かちあってくださるように。