神父さまのお話

百瀬 文晃 神父

 

平和への祈り(教会だより 2017年8月号)


 今年の夏は特別に暑いような気がします。炎天下にがんばってミサにこられる高齢の方々をみると、「大丈夫かしら」と心配になります。くれぐれもご無理のないように。
 こういう私も、つい先日、77歳になりました。お盆と終戦の日が近づくと、昔のことをあれこれ思いだします。
 終戦の数カ月前、私たちの家族は甲子園に住んでいましたが、空襲が激しくなってきたとき、父は家を守るために残り、35歳の母は5人の子どもを連れて、祖父が残した木曾山中の別荘へ疎開することになりました。混んだ汽車に乗り込み、トンネルの度に窓を閉めたり開けたり。1歳になったばかりの弟がおもらしをして、隣りのおじさんのズボンを濡らして母が平あやまりしたり。途中、突然の空襲で汽車が止まり、電灯が消え、だれかが大声でどなって全員床に付し、息をひそめていました。艦載機が列車の上を飛んで、バリバリと屋根に機関銃をうちながら通りすぎていきました。さいわい空襲はそれきりでしたが、一度止まった汽車はいつになっても動きません。長い、長い旅でした。
 中央線の上松(あげまつ)という駅について、そこから山中の別荘まで歩かなければなりません。母は赤ん坊の弟を背負い、姉二人と兄と、まだ5歳にならない私と、お手伝いのおじさん一人は、土の山道を歩きました。行っても行っても行き着きません。私が道に落ちている馬糞を見つけては、「ぱかぱうんち」と言ってしゃがみ込むので、母は苦労しました。
 山の中は空襲もなく、静かでしたが、食料がなく、母が近くの農家に行って、家から持ち出した物を食物に換えてもらい、何とか5人の子どもたちの糊口をつないだのでした。
 終戦の日、近くの労働キャンプで働かされていた中国人の捕虜が解放されました。日本人への復讐を恐れ、とくに11歳と9歳の娘たちが襲われるのを恐れた母は、二人を屋根裏部屋に隠して潜んでいました。ある日、解放された捕虜たちが家の回りにきて、中をうかがっています。一人が扉を叩きました。母は意を決して扉を開けたところ、その人は私たち小さい子どもを見て、何も悪いことはせず、ただ取れかけたボタンの修理を頼みました。母がそれを付けてあげると、小さな缶づめを二つ、お礼に置いていきました。それは、私たちには久しぶりのご馳走でした。
 秋になって、私たちは焼け野原になった甲子園にもどってきました。父の病院は全焼しましたが、自宅だけは残っていました。神さまに守られた日々でした。
 今年も私たちはザビエル上陸記念碑の前で、平和への祈りをささげます。戦争の犠牲になった方々をはじめ、亡くなった親族や友人たちを追悼するとともに、今なお世界のあちこちで戦争や暴力に苦しんでいる多くの人々のために祈りたいと思います。神の国と平和が実現しますように。